備忘録  番外編  2025.7.20

それでも諦めず、言葉を模索し、生み出し、紡いでいくために

〈100年の食卓〉は本日7月20日、5周年を迎えました。
皆様の買い支えに心より感謝申し上げます。

奇しくも参議院選挙の投票日と同じ日に5周年を迎えたわけですが、「政治の投票」と「経済(買い物)の投票」は似た側面があります。
投票して終わりというより、政治で言えば、ここからの6年間、有権者は投票した人&政党の活動をチェックし続けることが大切になります。
応援したり監視したりして付き合い続け、次の投票の判断材料としていかなければなりません。

今風な言い方をすれば、「コスパとタイパが悪い」のが民主主義です。
時間がかかり、スピーディーに変化しないことに苛立ちを覚えたりもしますが、“独裁”を生まないための知恵でもあります。
「ポピュリズム」「ファシズム」「民主主義」が紙一重のところでせめぎ合い反転してきた歴史を振り返ると、戦後80年の日本はどの道を選択するのか、大きな岐路にあるともいえます。
“選挙”という権利で意思を表明するために不可欠なのが、主権者である国民の“不断の努力”〔※日本国憲法第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない〕であって、それが民主主義を支える基盤となっています。

それは、買い物における投票でも同じです。
“消費”をすることは、誰かの“所得”を生み出しています。
購入した生産物の「生産~流通~販売」に関わったすべての人の、給与につながっているのです。

であるからと言って、お客様は“神様”ではありませんし、生産者も“雲の上の人”ではありません。
「生産者」と「消費者」はどちらが上でも下でもなく、あくまでイコールパートナーで、消費者は味わいや生産スタイルについて“不断の努力”でチェックをしながら食品と付き合い続け、生産者と消費者はお互いに切磋琢磨することで暮らしを支え合う関係性です。
「1回食べたら終わり」というスタンプラリー的な買い物ではなく、その生産物・生産者と付き合い続けていくことで見えてくる味わいを楽しみ、買い支え続けるという投票行動が市場経済に影響を与え、多様な食文化の価値を次世代へつなげていくことが可能になります。

そして「販売店」である〈100年の食卓〉は、生産者と消費者の関係をとりもつ場として、その3者がイコールパートナーとして持続的にお互いをチェックしあう機能を果たすことも大切です。
販売店だからといって「入荷した商品を右から左へどんどん売りさばき、商品を売ったらそれで仕事は終わり」という片道切符の販売スタンスではなく、コミュニケーションが往復かつ循環する形を生み出す店頭での対話がオープン時からのポリシーでもあります。

ですが、本日までの5年間、そのための“不断の努力”を重ねて参りましたが、感染症の拡大、ロシアのウクライナ侵攻の影響などを経て現在の物価高が到来し、特にコストプッシュ型インフレによる食料品の値上げ現象が消費者の財布の紐をきつく締めさせてしまったことで、〈100年の食卓〉の力不足も相まって売上は大幅に下降、月間売り上げの最低記録を更新する日々となってしまっております。

今回の参議院選挙でも、一昔前の「人権・平和」などのスローガンは少なく、税制・社会保険の改正、経済格差や物価高をターゲットにした主張を掲げる政党が大半でした。
そこに、グローバリゼーションへの疑念と排外主義、エリート・知識階層への嫌悪、エビデンスやファクトのない陰謀論がないまぜになり、SNSを活用したポピュリズム型の政治が普遍化した選挙でもあったといえるかもしれません。
食の世界でいえば、イタリアのスローフード運動は反グローバリゼーションが発端でしたし、さらに遡るとドイツのナチス時代はアーリア人の優生思想をオーガニックやエコロジー的な政策が下支えした面も指摘されています。

この5年間、〈100年の食卓〉が店頭でお客さんと対面して語ってきた言葉は、今の時代状況を前にして、あまりに無力なのかもしれません。
当SNSでも「備忘録」の中で言葉を尽くしてきましたが、反響は乏しいものでした。
ですが、それでも諦めず、もはや選挙でも経済でもブランディング(差別化)のために用いられるオーガニックや自然派といった類の“分断”を招くマーケティング・ワードではなく、本来の意味での「有機的」で「多様性」のある食文化の価値を伝える言葉を模索し、生み出し、紡いでいくための“不断の努力”を続けていくしかありません。


赤字を補填するために始めたチェーン飲食店での“出稼ぎ”も半年が経ちました。
若い時にバイトをしながら夢を追うことは苦ではありませんが、この年齢になって新人の立場でのアルバイトは苦労の連続です。
とはいえ、農家には兼業農家も多いですし、大規模な農家・スーパーばかりの社会では、量は供給されても、多様性や有機的な人のつながりは希薄になるばかりです。
「103万円問題」に限らずアルバイトの現場には問題が山積していますが、心が折れるまで、“出稼ぎ”をして兼業小売店主をまっとうしようと思っております。

簡単に6周年は約束できない状況ですが、まずは年間最低売上を記録してしまう8月を乗り越えるために、皆様のご支援、重ねてお願い申し上げます。

備忘録㉑最終回 【オープン4周年を迎えて】2024.10.8

〈エピローグ〉 “ふつうの食”を“ふつうに食べられる社会”を願って

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第21回。


《序章》から11回に渡り書き綴ってきた【4周年を迎えて】は、今回が《エピローグ》となります。
そして『備忘録』自体の最終回です。

この4年間は、まずもって〈100年の食卓〉の存在を知っていただくことに重点を置き、「伝統食品・職人手造り食品」の価値をご家庭の食卓へお届けするために励んで参りましたが、手応えを感じているとは申し上げられない現状です。

今年に入ってから“物価高”の影響が顕著となり、これまで微増ながら右肩上がりだった売上額は大きく下降。
“必需品”ではなく“贅沢品”に仕訳され、買い控えが起きたのかもしれません。
常連のお客様以外の来店人数&回数が減り、年間売上は4年間で最低を記録しそうで、投じた私財も底が見えてきました。

もともと、起業して「大金を稼ぎたい」と考えているタイプではありません。
地元愛知の明和高校を卒業後に東京へ出てライター&エディターとなり、その後は衆議院議員公設秘書、編集プロダクション設立、インディペンデント雑誌編集長、飲食店オーナー料理人と仕事を手がけてきましたが、車やマイホームを所有したいと思ったことは一度もなく、社会的価値のある事物を一人でも多くの人へ伝えたい、という志でチャレンジを続けてきました。

〈100年の食卓〉の構想を描いたのも、「伝統的食文化を次世代へつなぐ」というミッションを実現するためには、良質な食材を使用すると客単価が高くなってしまう“飲食店”では広がりに限界があると感じたためです。
前回詳述したソーシャルビジネスの形態であれば、「家庭の食卓」へ届けられるかもしれない、と小売店でのオープンを決意しました。


4年の歳月で取り組めなかった課題も多々あります。

日本人のみならず外国からの移住者&旅行者にも「伝統食品・職人手造り食品」を体験していただく場を創出したいですし、災害時の食に関する支援機能を果たせるような基盤づくりも進めていきたい点です。

ミッションの1つ、「生きる力としての“自炊”のススメ」も、まだ道半ば。
一環として料理教室を考えたこともありますが、“料理研究家”と名乗って有料で教えるスタイルより、来店時の対話の中で「食のことなら無料で相談に乗ります」というスタンスのほうが〈100年の食卓〉らしい気もしています。

食材や調理道具には個体差があり、本来はそれによってレシピは変化しますし、食材が良質であれば料理工程は簡素になります。
ハレとケでいえば日常のケはシンプルな引き算料理の一汁一菜で足りると〈100年の食卓〉は考えていますので、“頑張りすぎない自炊”の仕方を伝えていく場も必要だなぁと、4年間触れてきたお客さんの声から痛感しています。

食べた感想を次のご来店時に伺い、それを踏まえて新たなアドバイスをするやりとりも対話の1つです。
その声を生産者へフィードバックすることも大切で、消費者・販売店・生産者の支え合いの循環へとつながります。

また、物価高によるスタグフレーションで低・中所得者層の貧困化が指摘されていますが、そのような家庭であっても〈100年の食卓〉で取り扱っている食品が日常的に食べられる社会へと改善していくことも重要なミッションです。

総菜パンやカップ麺をはじめ、うまみ調味料・保存料などの添加物が入った食べ物を「おいしい♪」「ヤバイ!!」と喜んで食べているのなら何も問題はありません。
高所得者が「味の素はうまい」と発言する度に炎上していますが、そういう方々にはうまみ調味料が使われている高価な付加価値食品を購入して経済を回していただければと思います。

一方で、添加物の入った食品や工業的に大量生産された食品が「おいしい」と思えないのに、所得が限られているため食べ続けなければならない人たちも存在しています。
これは、味の好みの問題ではなく、経済の問題です。

憲法第25条「健康で文化的な最低限度の生活」の観点からすると、所得と食の関係については社会制度として捉えなければならない課題といえます。
総菜パンやカップ麺が食べられるなら“最低限度”は保障されている、と言うのなら、「健康で文化的」とは一体どんな状態を指しているのでしょうか。

添加物や農薬を使っていない“ふつう”の食べ物が、高価格化の方向性だけではなく、毎日の食卓で“ふつうに食べられる社会”へ向けて、国も生産者も消費者も真摯に取り組む必要があります。

ソーシャルビジネスの“ソーシャル”は「私的な事業ではない」という立ち位置に由来しています。
“ふつうの食”が一部の人たちだけのものにならないよう「私」と「私たち(社会)」をつなぎ、食のセーフティーネット的な役割を担うためにも〈100年の食卓〉の灯を、まだ、絶やすわけにはいきません。

 “舌先”で感じるおいしさの、その先へ──

備忘録⑳【オープン4周年を迎えて】2024.10.1

〈其ノ拾〉買い物が“社会貢献”につながるビジネススタイル

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第20回。


前回の〈其ノ玖〉では「コミット」について記しましたが、今回は「社会へのリターン」をキーワードに掘り下げます。

消費者には「顧客」「御客」「観客」があると言われています。
顧客の「顧」には目をかけるという意味があり、定期的に買い物に来てくれる常連客を表しています。
御客は「訪ねてくる人」を指し、不定期な突然の来店や、何も購入しない来店も含めて、訪問者全般が客人です。
観客は「見ている人」のことで、代金を払っていない場合は見物人と同義になり、最近はSNSでの情報を見ているだけで来店したことがないフォロワーを意味したりします。

コミットによる「顔の見える関係」を構築するためには、“消費者の顔”が見えることも欠かせない要素です。
単に代金を支払うだけではなく、「次世代への投資」を念頭に主体的な消費をすることも顔の見える関係を築くための1つのアクションにつながります。
未来の社会への利他的な投資は、ある意味で本筋の投資の姿でもあります。


〈100年の食卓〉が“ソーシャルビジネス”という旗を掲げていることはこれまでも何度か触れてきましたが、今回はその意味について記します。

ソーシャルビジネスは「社会的課題の解決を目的としたビジネス」のことです。
事業で利益を生んだとしても、投資者への配当はせず、代表者や役員の報酬にもまわさず、次の課題に取り組む資金に充てます。
このビジネススタイルを知ったのは、店主が衆議院議員の公設秘書として働き、NPO法の勉強会に出席していた頃です。

社会には大きく分けて「営利組織(企業・個人事業など)」「公共組織(政府・地方公共団体など)」「非営利組織(NPO・NGOなど)」の3つのセクターがあります。
違いは、財源と行動様式です。

営利組織の財源は「消費者からの代金」が主で、よって「利益追求」の中で行動が選択されていきます。
公共組織の財源は「税金」で、そのため行動様式は「公正・公平」です。
非営利組織の財源は「会費・寄付・助成金など」で、組織の「ミッション」を重視して行動します。

特徴を伝えるため極端な表現となりますが、NPO法の勉強会で示された資料では、仮に200人がいる場所で100個のお弁当があった場合どう対応が異なるかについて、こう説明していました。

企業は、利益を追求することで社会的な役割を果たすので、より高い値段を付けた人から順番に売っていきます。
行政は、公正・公平性が求められるので、2等分して200人に配るか、平等のためには「誰にも配らない」という選択になります。
NPOは、ミッションを実現するための支援を行いますので、障害者組織なら障害者へ、女性組織なら女性へ、介護組織なら高齢者へ、優先的に渡します。

この3セクターの事業活動で社会は形成されていますが、目が行き届かない領域もあります。
そこに登場したのが「ソーシャルビジネス」で、企業・行政・NPOが解決できない社会的課題を、ビジネスをベースにして社会貢献へとつなげる事業スタイルです。
ですが、まだ法制化されていないため株式会社や個人事業、NPOの形態で取り組まざるをえず、認知されにくい状態にあります。


〈100年の食卓〉で取り扱っている食品に対して「興味はあるけど値段が高いので…」という感想もいただきます。
価格と価値のバランスは永遠の難問です。
とはいえ、価格についても「次世代への投資」という補助線を引き、別の景色を浮かび上がらせる努力を続けるしかありません。

「投資」は「リターン」とセットで語られます。
これまでのリターンは営利組織による「個人への金銭的なリターン」が主でしたが、ソーシャルビジネスはいわば「より良い社会を創ることで投資者の暮らしへ還元する」という形でのリターンとなります。

NPOの寄付は金銭や返礼品を受け取らず「社会的なリターン」のみを望む投資ですが、ソーシャルビジネスは「購入した品」と「社会的なリターン」の両方を手にすることが可能です。
例えば伝統食品・職人手造り食品の場合、買うことで「自然環境の保護」「伝統的食文化の継承」などの課題解決につながり、ひいては「より良い社会」が実現しリターンされるのです。

「割高だけど社会的価値がある」と購入する消費者が増えていくことで、ソーシャルビジネスの土壌は育っていきます。
社会貢献というプラスαの隠し味、そして「御客」の枠を超えて「サポーター(顧客)」としてコミットすることの意義を営利組織より見出しやすいところも、ソーシャルビジネスの醍醐味です。

その魅力で“観客席”からいざない、価値ある食品と〈100年の食卓〉を買い支えていただけましたら最上の喜びでございます。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑲【オープン4周年を迎えて】2024.9.24

〈其ノ玖〉消費者の“コミット”が食の未来を創る

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第19回。


【4周年を迎えて】と題した前回までの投稿で、「自然派・無添加食品」「伝統・職人手造り食品」「有機・オーガニック食品」の課題を書き綴ってきました。
経済&政治の状況を織り交ぜ、「値上げvs賃上げ」「高付加価値より先人の知恵」「おばあちゃんの味」「食のモノ化」「食品が買えない世界」「不安ビジネスと減点法」「意識高い系消費」「有機の未来図」といったキーワードで思考してきたのですが、軸に据えていたのは「食料自給率の低さ」と「消えていく食文化」への喫緊の対応の重要性です。

また、「いいね!」と即応してしまう文章ではなく、あえて違和感を覚える、少しズラした角度からの問いかけも心がけてきました。
エコーチェンバー現象に陥りやすいSNSという虚像装置の中で、同じ価値観に触れて共感しているだけでは自己を問う作業は起きにくくなり、こだわりは“拘り”の字が表すように思考を拘束してしまいます。

“自分探し”に迷い込んだり“フェイク”に騙されたりしないためにも、情報シャワーから解き放たれて自分自身で考え続けていくことが大切で、この文章も疑うぐらいが丁度よいです。

ということで、今回から最終コーナーに入り、広げた風呂敷を畳みながら「個人店の役割」について掘り下げます。


先日、イギリスと北米のチェーンストアで「セルフレジ」が廃止された、という記事を読みました。
導入後に売上げが減少し、「エンゲージメント(愛着心)」や「オーガニック(有機的つながり)」がお客さん、そして従業員からも失われてしまうことが理由として挙げられています。

〈100年の食卓〉はソーシャルビジネスの旗を掲げていますので、「売れればOK」「買ってもらったら関係は終わり」というスタンスではなく、店頭での対話を大切にしています。
購入動機、用途、場面、調理法などを伺い、お客さんの要望に沿った提案をする“キュレーター”のような専門性も心がけています。

過去の備忘録の中で、「宣伝・接客時にできるだけ使わないようにしている言葉」について記しました。
日常で何気なく用いている言葉を疑い、例えば「安全安心→信頼信用」へ転換することで別の文脈が立ち上がってくる、という想いからでもあります。

中でも「おいしい」の代わりに使用している「ありがたい(有難い)/えがたい(得難い)」は、〈100年の食卓〉の根幹を担う言葉です。
コンセンサスのある「おいしい」を批評的に置き換え、今の時代に「有る・得る」ことが難しくなってきた食べ物の背景を伝えることで、食の現状を浮き彫りにできればと考えています。

販売店を訪れるとき大半の消費者は、店のことを知るより、販売している“モノ”のほうへ目がいきます。
商店街が減ったことで店主と客が声を掛け合うやりとりを見かけなくなりましたが、スーパーではなく個人店でも終始無言で買い物をする光景が増えています。

“店主の想い”が詰まった場所が個人店であり、それはSNSの枠では収まらず、人と人の関りを店頭で重ねていくうちにお客さんの胸中へ沁み入るものでもあります。
A店とB店で同じ食品を販売していたとしても、購入した店との関係性によって味わいや余韻が異なる、ということなのです。

品揃えが豊富で、いつものモノがいつでも手に入るスーパー的な自然食品店を切望する声も耳にします。
タイパ・コスパの面から“使い勝手が良い”のかもしれませんが、季節の恵みや手仕事から生まれる食べ物は、「いつも有るわけではない」が本来の姿です。
「足るを知る者は富む」という諺のように、有るもので賄う暮らしが「有難さ・得難さ」の核心で、それによって“買う”から“分けていただく”という心持ちが生まれることもあります。


“食のアウトソーシング”の割合が高くなり、「食べる」という行為は娯楽施設と同様、お金を払えば楽しませてくれるもの、という位置づけになりました。
グルメ・美食の世界も、メディアで紹介されている食品を購入する行動も、ある意味でサービスを享受するだけの“他人任せ”の消費であって、そこが「おいしい」の限界です。

なぜ、「食料自給率の低さ」や「消えていく食文化」が、国政の大きな論点にならないのでしょうか。
“お任せ民主主義”“観客民主主義”といわれて久しい日本で、「有難い・得難い食べ物」を100年後の食卓へつなげていくためには、憲法第12条で謳われている「国民の不断の努力」が欠かせません。

「エンゲージメント」や「オーガニック」はコミットによって醸成されます。
主体的な“参加”で紡がれる消費者発信のナラティブこそが、販売店と生産者を支え、日本の食の未来を変えていく立脚点だと〈100年の食卓〉は信じています。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑱【オープン4周年を迎えて】2024.9.17

〈其ノ捌〉有機市場の拡大=有機の工業化?

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第18回。


前回の〈其ノ漆〉では、「有機の未来図」について記しましたが、今回は「有機市場」をキーワードに掘り下げます。

おさらいしますと、政府は2050年までに「有機農業の取組面積の割合を25%(100万ha)に拡大」することを掲げました。
しかし現在の面積は2.66万ha(令和3年)です。

総生産量のうち「有機」が占める割合は、茶が5%でトップ。
大豆0.45%、野菜0.39%、米、麦、果実は0.1%ほどです(令和4年)。

では、世界の現状はどうでしょうか。
農水省の『有機農業をめぐる事情』によると…

「取組面積の割合(2021年)」が高いのは、イタリアで16.7%(218.6万ha)。
10.8%のスペイン(263.5万ha)とドイツ(180.2万ha)、9.6%のフランス(277.7万ha)と続き、イギリスと韓国は2%台、日本、アメリカ、中国は0.6%~0.5%です。

別資料では、「面積」の1位はオーストラリアで約3,500万ha(9割以上が牧草地)、2位はアルゼンチンで410万ha、3位はフランスとのこと。

1人あたりの「年間消費額(2022年)」は、スイスの60,306円とデンマークの50,370円が飛びぬけて高く、オーストリアとスウェーデンは3万円台、ドイツ、フランス、アメリカが2万円台。
イタリア8,556円、スペイン7,590円、オーストラリア7,176円、イギリス7,038円。
日本は1,794円で、韓国1,518円、中国1,242円です。

国別の「年間売上額(2022年)」は、アメリカが8兆円越え。
ドイツ2.1兆円、中国1.7兆円、フランス1.6兆円と続き、スイス、イタリア、イギリスは5億円前後、スウェーデン、スペイン、オーストリアは3.5億円前後、日本は2.2億円です。


これらのデータから、政府はまず有機市場を拡大し、「有機のほうが売上が増える」と興味を持つ農家が現れてほしい、という戦略のようです。
国土も狭く、広大な平地はほぼ集約されている日本で「100万ha」まで拡大するには、個人農家の4人に1人の土地(25%)をオセロのように有機へと“転換”させていくしか方法がない、ともいえます。
ですが、個人農家の廃業が続くようなら絵に描いた餅です。

農水省の消費者調査(2022年)では、「ほとんどすべて『有機』を利用している」という回答は1.6%に過ぎず、「一部『有機』や減農薬など安全や環境に配慮したものを利用している」が45.6%、「全く利用しない」は19.8%です。
購入先(複数回答)は、スーパーが86%、生協、直売所が20%台。
自然食品店12.9%、百貨店10.4%となっています。

「スーパーに置いてあれば、たまに買う」という消費動向ですので、市場を拡大するにはスーパーでの取り扱い品目を増やすことがカギとなります。
最近は大手スーパーでよく見かけ有機への“入口”として期待していますが、実際に食すと“悲しい味”であることも多く、杞憂であればよいのですが、「割高なのにこの味なら、安いほうでいい」と遠ざかってしまう可能性もあります。

〈100年の食卓〉で取り扱っているような食品もスーパーに並んでいれば、消費者にとっては便利かもしれません。
しかし、「伝統食品・職人手造り食品」は生産量が限られていて、「一年中いつでも手に入る」というわけにはいかないものもあります。¬

スーパーはスケールメリットのある仕入れを考慮しますので、「有機」であっても在庫を切らさない生産体制を構築し、全店舗に並べてもらえるよう工業的に大量生産する道を選ぶのも一つの経営判断です。
とはいえ〈100年の食卓〉は、この“農的”か“工業的”かの選択が、結果として食味に表れると考えています。


大手スーパーは今後、さらに有機の販売スペースを拡張し、右から左まで幅広い品揃えを展開していくでしょう。
この手法は政治でも見られ、野党が立案した政策であっても、世間の反応が良ければ与党は自身の発案であるかのように取り込んでしまいます。
「大は小を兼ねる」は安定性や利便性を提供する要素もありますが、多様性は乏しくなり、“一強”や“独占”も生まれやすいです。

また、有機市場を拡大させることで、“工業的”な有機へのシフトが進んだり、付加価値による売上増への期待から“ブランド化”へ傾いたり、「自然環境との調和」という目的は徐々に形骸化するおそれもあります。
既得権益も生まれやすいので、オーガニック給食などの行政事業は公正なルールが必要です。

すなわち、有機はゴールではなく、そこからようやく“人と人”、“ヒトと自然”の有機的な関係が始まるのです。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。


備忘録⑰【オープン4周年を迎えて】2024.9.10

〈其ノ漆〉有機・オーガニック食品の未来図 ~2050年の姿をイメージしてみると……~

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第17回。


前回の〈其ノ陸〉では、「不安ビジネス」について記しましたが、今回は「2050年の有機の姿」をキーワードに掘り下げます。

“令和の米騒動”の裏で、米農家の廃業・倒産が8月末時点で昨年に迫る計34件となり、初の年間40件台も想定される状況とのことです。
帝国データバンクによると、背景には「コストの上昇」と「深刻な後継者・就農者不足」があり、主食米の消費が減少している中での価格転嫁も難しく断念するケースも多かった、と指摘しています。
SNSやメディアによる表層的な情報ではなく、根源的な要因と向き合わなければ見当違いの対応を繰り返すことになります。

「有機(オーガニック)」を取り巻く環境も似たようなところがあります。
ムード先行になりがちで、事実やデータに則した冷静で建設的な言説が乏しい印象です。

そこで今回は、今年7月に作成された農水省の資料『有機農業をめぐる事情』を基に課題点を整理してみます。

まず、有機JAS認証を取得している農家戸数は、最新の令和4年調べで3,936戸。
推移は15年に渡り横ばいで、“人”が増えていません。

新規就農のうち「全作物で有機農業を実施」している農家は、平成25年は23.2%でしたが、令和3年は16.9%に減少。
今後の取組面積については、「現状維持」が72.2%、「縮小」が10.1%。
理由(複数回答)として、「人手が足りない」「手間がかかる」は45%前後にのぼり、「コストが高い」「収量が上がらない」は20%余り、「消費者に意義が伝わらない」「販路の確保が難しい」と続いています。


令和4年4月、「環境と調和のとれた食料システムの確立のための環境負荷低減事業活動の促進等に関する法律」が成立。
この通称・みどりの食料システム法を踏まえ農水省では「オーガニックビレッジ(地域ぐるみで有機農業に取り組む産地)」の創出を支援しています。

「2025年までに100市町村」を目標にスタートし、先日8月30日で129市町村となり達成。
地元愛知県では東郷町、南知多町、岡崎市、大府市、美浜町、武豊町がオーガニックビレッジを宣言しました。
今後さらに、地産地消を推進し、学校給食や地場加工品への利用を増やすことで、2030年までに全国の1割以上となる「200市町村」を目指す、としています。

また、『みどりの食料システム戦略』では、2050年までに「農林水産業のCO2ゼロエミッション化の実現」「新規農薬等の開発により化学農薬の使用量を50%低減」と並び、「有機農業の取組面積の割合を25%(100万ha)に拡大」と記載。
令和3年調べの面積は26.6千ha(0.6%)です。
そのうち有機認証を取得している農地は約半分の15.3千ha。
北海道が49%を占め、ついで鹿児島県6%、熊本県4%となっています。

取組面積を拡大するための方策としては「次世代有機農業技術」の確立を表明。
【実践技術の体系化・省力技術等の開発】によって2030年までに「堆肥のペレット化、除草ロボット等による耕種的防除の省力化」などを進め、【スマート技術等による次世代有機農業技術の開発】によって2040年までに「AIによる病害虫発生予察」「病害虫抵抗性を強化するなど有機栽培に適した品種」などを開発する、とのことです。


2050年には個人農家が大幅に減り、耕作面積も生産量も半減する、という推計レポートも民間の研究所から出ています。
有機に限らず農業自体が危機に瀕するかもしれない人口減社会において、有機農産物はどうあればよいのでしょうか。

四半世紀後に「100万ha」を掲げ、広大な土地へは法人の新規参入を促し、中山間地でも技術開発型の農業を広げていく戦略のようですが、個人農家への目配りは読み取れませんでした。
次世代技術は慣行農法で活かしたほうが効果的に思えますし、有機に省力・効率化が適しているのか疑問符も浮かびます。

【法人の大規模農業+大型スーパーでの販売=有機市場の拡大】という戦略は、一見その道しか残されていないように感じます。
ですが、町から八百屋や魚屋が消えてシャッター商店街が生まれた経緯を思い返すと、もし大規模大型化という方向性を生産者も消費者も販売店も支持したならば、結果として遠くない未来、有機の存在価値そのものが問われることになるのではないでしょうか。

どうやら、〈100年の食卓〉が魅力を感じる有機・オーガニックの姿とは、大きく異なる未来図を政府は描いているようです。
2050年の有機食品は、自然や土との対話、郷土性・文化性の意義を脇へと寄せ、ますます表示ラベル上の“モノ”と化しているのかもしれません。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑯【オープン4周年を迎えて】2024.9.3

〈其ノ陸〉空を飛ぶ鳥の如く、食が“自由”であるために

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第16回。


前回の〈其ノ伍〉では、「食品が買えなくなる世界」について記しましたが、今回は「不安ビジネス」をキーワードに掘り下げます。

【4周年を迎えて】を書き始めて以降、G7の資本主義国で政治がスウィングしています。

イギリスでは、総選挙で労働党が保守党を破り14年ぶりの政権交代。
アメリカでは、民主党ハリス候補と共和党トランプ候補で大統領選が接戦の模様。
フランスでは、欧州議会選挙で極右勢力が大幅に議席増となった結果を受けて大統領が国民議会を解散し総選挙となり、左派連合・与党連合・国民連合のどこも過半数を越えず連立政権の枠組みが難航。

日本では、与党・自由民主党の総裁選、野党・立憲民主党の代表選が9月下旬に行われます。

2024年の世界の政治の動きは、食の分野にどんな影響を及ぼすことになるのか。
とはいえ「政治」より「経済」のほうが、良くも悪くも食の業界を動かす力を持っていたりします。


政治課題と経済的利益を融合した企業の取り組みは、アメリカでは「woke(目覚めた)capitalism(資本主義)」と呼ばれています。
人種差別、LGBTQ、気候変動などの課題の解決に向け、有名人を起用した広告などで“社会正義”の実現をアピールして社会的公正に関心の強い消費者へ商品を訴求する企業の行動を指します。

これまでも企業(主に多国籍企業)は「ポリティカル・コレクトネス」によって“政治的正しさ”に配慮してきましたが、この「ウォーク・キャピタリズム」は資本主義の一形態ですので、社会正義を実現するための商品を製造・販売することが多額の利益をもたらすのであれば「経営陣は単に利用しているだけ」と偽善性を指摘する声もあります。
経営陣の巨額な富、世界中での低賃金労働の問題など、資本主義の搾取構造自体に触れていないためです。
ナチュラルやオーガニックを掲げながらポーズだけの企業に対して「グリーン(SDGs)ウォッシング」と批判する現象と似ています。

もともと「woke」は、アフリカ系アメリカ人のスラングで、人種差別に抗する概念を表現していました。
それが近年では、性別や環境問題など様々な社会的課題を含む意味合いになり、その変容とともに保守層の間では“意識高い系”を揶揄する言葉として使われるようになっています。


日本の自然派・無添加の食品市場でも、似たような動向を見かけます。
CMで社会的課題を挙げながら商品を紹介するメーカーやスーパーが増え、いざ口にしてみると“悲しい味”であることも多く、特に安値設定のPBのオーガニック食品では「食味は二の次」となってしまっているようです。

また、自然派・無添加の食品は、健康や安全性に対する“不安”をマーケティングし、宣伝からパッケージまでブランディングされているものが少なくありません。
不安への“答え”はオシャレにデザインされ、それと気づかないようなファッションで装っています。
広告やラベル表示は“粉飾”が効き、消費者は自ら選んでいるようで、実は選ばされている一面もあり、不安になればなるほど儲かるという図式は「不安ビジネス」と呼びたくなるほどの危うさを抱えています。

「不安ビジネス」は、減点法です。
農薬を使っているからダメで-10点。
添加物が入っているなら-20点。
100点満点から“欠点”を引いていく価値観です。

エコーチェンバー現象に陥りやすいSNS社会で「不安ビジネス」にハマると、 “ブックスマートで意識高い系”の消費者ほどそこから抜け出せなくなり、食品を手に取る度に原材料欄を確認する“症状”が表れ、無・非・不という否定形の接頭辞に安心感を覚え、減点思考が染みついてしまうようです。
この拘泥を解きほぐすための試みの一つが、〈100年の食卓〉の伝統食品&職人手造り食品へのアプローチだったりします。

夢やロマン、文化・歴史などの物語は、加点法の世界です。
満点は存在せず、魅力を加算していけば150点にも1000点にもなりえる“体験型”の消費スタイルともいえます。


食は、レシピからも、権力や制度からも、自由であることが大切です。
何を食べるのか、その選択の自由が、人生の楽しさや暮らしの豊かさを育みます。

「選択肢が多様な社会」が存在してこそ自由で、オーガニック・無添加はあくまでその中のパーツ(部分)の話。
農薬や添加物の有無で食べ物に優劣が付いているとしたら、それは不自由な社会です。

国土が狭く農畜産物の生産が限られ、食料&飼料自給率が低い日本において、○or×という二者択一では持続可能な食料需給システムを次世代へ繋いでいけません。
右の翼も左の翼も両方ないと、自由に飛ぶことはできないのです。

 “舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑮【オープン4周年を迎えて】2024.8.27

〈其ノ伍〉「食品が買えなくなる世界」になったとしたら…

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第15回。


前回の〈其ノ肆〉では、伝統食品の真の価値について記しましたが、今回は「食のモノ化」をキーワードに掘り下げます。

“令和の米騒動”が話題となっています。
この事態は、なぜ起こり、何を意味しているのでしょうか。

7月30日に開かれた農水省の審議会では、主食用米の6月までの年間需要は702万tとなり前年比11万t増で、その要因はインバウンドと、家庭用販売米がパン・麺よりも小幅な値上げだったことが指摘されました。
民間在庫は前年同時期より41万t減(-20%)となっているものの、林官房長官は「現時点で食用米の全体需給はひっ迫している状況ではない」と述べました。

その後、品薄の状況が報じられるたびにスーパーの棚から米が減り、外食業界もかき集めに走ったことでスポット価格が高騰、そこに「南海トラフ地震臨時情報」と「台風への備え」が重なり、現在の“米騒動”へと至りました。

とはいえ、円安要因の物価高を越える値上げ幅であっても、入荷があれば完売する状態は“備えとして過剰”といえなくもありません。
通常時は人気のパン・麺類で代替することも可能なはずで、「自分さえよければ」という利己的な買い溜めは日本人同士の米の奪い合いを加速させているにすぎず、価格の上昇によって低・中所得層の家計は苦しくなってしまいます。

1993年の“平成の米騒動”では、政府はタイ米を輸入して対応。
この時の作況指数は74で戦後最低ですが、2023年は101で平年並み。
ですので、私たちヒトが食べる主食用米の生産が抑制されている点も一因、と指摘されています。
2020年~2022年に感染症対策で外食産業の需要が落ち在庫過多になったことで、農水省はヒトの主食用から家畜のエサとなる飼料米の生産などへ振りかえるよう、補助金をつけて生産者に推奨してきたのです。


先の令和6年通常国会では、「食料供給困難事態対策法」が可決・成立しました。
不測の要因で食料の供給が大幅に減る際、政府が必要な対策を講じて事態を未然に防止、または深刻化を防ぐための法律です。

供給を不安定化させる要因として「異常気象」「地政学的リスク」「家畜伝染病や植物病害虫の侵入・まん延」「穀物等の畜産需要や非食用需要の増加」「新たな感染症の発生」「輸入競争の激化」が挙げられています。
供給が“困難”と判断する基準は「平時と比べた供給量が2割以上減少する」「1人1日当たりの供給熱量が1,900kcalを下回る」ことが目安となるとし、その“兆候”が表れた段階から「特定食料」と「特定資材」を政令で指定して措置を講じる、と定めています。

特定食料は「米/畜産物/油脂類/小麦/砂糖類/大豆など」、特定資材は「肥料/飼料/農薬/種子/動物用医薬品」を想定。
具体的な対策は、“兆候”段階では「生産の促進を要請」し、“困難”段階に入った場合は「生産計画を作成し、届け出ることを指示」、それでも不足しているときは「生産計画の変更指示」ができるようになっています。

対象事業者は、該当する食料・資材の「出荷・販売業者/輸入業者/生産業者/製造業者」で、対策の実効性を担保するため「インセンティブとしての財政上の措置」と「罰則等の措置」(20万円以下の過料または罰金)が設けられています。


公布は6月21日で、1年以内に施行されます。
食料安全保障の観点からの法律ですが、食が“モノ化・エサ化”している現代において私たちは何を優先するべきなのか、今にも増して積極的に考える必要性を痛感します。

人口減社会における限界集落や耕作放棄地の問題は、いくら“土地”があったとしても、生産者になる“人”がいないと意味をなさないことを露呈しています。
食べ物を生産していない都市生活者が、「お金を払えばいつでも買える」と考えている限り、食を取り巻く環境は現状のままでしょう。

「顔の見える関係」という言葉が食の世界で使われるようになって久しいですが、売り場に設置された写真や動画で顔を見て、はたして「顔の見える関係」になれたでしょうか。
物理的に「顔を見る」ことより、生産者の生産物への考え方を「消費者が知ろうとする関わり方」が顔の見える関係の本来の意味合いだと〈100年の食卓〉は考えています。

誤解を恐れず申せば、「オーガニック」や「無添加」を重視するあまり、いつの間にか“人”ではなく「食品表示ラベル」という“モノ”を追いかけている、という主客転倒も見かけます。
遠回りであったとしても、たとえば「今年はなぜ農薬を使わなければならなかったのか」という背景を共有しあえる食の在り方のほうが、支え合い・助け合いを生み、逆に「顔の見える関係」へとつながると思うのです。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑭【オープン4周年を迎えて】2024.8.13

〈其ノ肆〉1回食べただけでは伝統食品の“本質”には出会えない

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第14回。


前回の〈其ノ参〉では、“おばあちゃんの味”について記しましたが、今回は“味の体験値”をキーワードに掘り下げます。

日銀は7月31日、金利を0.25%へ引き上げることを決定。
その5日後、日経平均株価が過去最大の下げ幅となり、翌日は過去最大の上げ幅となる乱高下状態に。
新NISAで投資を始めた人たちの“不安の売り”も話題となりました。

応援したい会社への投資ではなく、「儲けたい」という目的で投資をする人にとっては一大事でした。
とはいえ株式投資は、自分が得をした時は誰かが損をしていて、その逆も真なり。
「自分が得をすれば良い」と割り切るマインドも必要なのかもしれません。

“老後2千万円問題”という不安を背景に投資は注目され、岸田首相は「資産所得倍増プラン」を掲げて国民に投資を促しています。
今後の社会像として「自助・公助・共助」のどの方向性を選ぶのか議論になりますが、「自助」の価値観を政策的に後押しすれば、あらゆるシーンで「自分さえ良ければ」と判断する利己的な景色が広がっていくことになるでしょう。


食においても、“利他的”なつながりは薄らいでいます。
「自然派」や「健康」をキーワードに不安を煽って売り上げを伸ばす商法はますます幅を利かせ、オーガニック食品といえども有機的な関わりを排した売り買いが主流となりつつあります。
ネットショップは最安値を無言で購入できますし、実店舗も店員との会話を必要としない無機質な取引の場へと変容しています。

SNSやメディアで次から次へと情報を浴び、スタンプラリーのようにお店を回る消費者も増えています。
1回食べてクリアしたら、次の食品へ。
長期に渡って生産者・販売店を応援するというより、デイトレーダーのような短期単発スパンでの消費が繰り返されていきます。
とくに販売店の優先順位は低く、オーガニックや無添加の食品であったとしても「どの店で買っても一緒」と考える傾向にあるようです。

近年、「オーガニック」も「自然派」もマーケティング用語となり、付加価値の訴求を狙って利用されています。
以前は「ロハス」や「スローフード」という言葉も見聞きしましたが、「ロハス」はまさしくアメリカ発の“意識高い系ライフスタイル”を指すマーケティングコンセプトでした。
最近は「SDGs」が取って代わり、多くの企業がイメージアップ戦略として取り組んでいるものの、商売上の掛け声だけで課題解決を伴っていないケースも多く、“SDGsウォッシング”と批判されていたりします。

一方、「スローフード」は、ファストフードに対抗するイタリアでの社会運動がスタート地点となっていました。
そのため商業主義とは一線を画し、食のグローバル化が進んだ現代における伝統的な食文化の意義を見つめ直す役割を、今なお果たしています。


伝統食品は、人、時、土をつないでいく食べ物です。
1回限りで終わる世界ではなく、積み重なりの中に本質の味わいを内包しています。
いわば、“切り取り報道”のように一部分だけを見て全体を把握したと思っていたところ、切り落とされた前後の文脈を含めて見直すとまったく別の味わいが現れる──という在り様が伝統的な食品です。

固定種・伝統野菜は、遺伝的多様性があり、1つ1つで味も形も異なります。
伝統製法で造る味噌や酒などの発酵食品は、ラベルが同じであったとしても、菌の働きによってその時々で味が違ったりします。

大量生産型の食品は同じ味になるよう再現性を追求しますが、職人の手造り食品は別の形の心配りをしています。
継続的に食べていると味わいの幅を実感し、それは、体験を重ねることでしか出会えない味なのだと気づきます。
「味覚」は自身の体験値の集積であり、1回で高値を得ることはできません。

そして、伝統食品の真の価値は、見栄えや完璧な佇まいにあるというより、清濁併せ呑むの如く、良い所があれば悪い所もあり、欠点や弱点を抱えているからこそ長所や特性も引き立つ、という包容力にあるのだと思い至ります。
パーツで判断するのではなく、“丸ごと全体を受け止める”という姿勢は、食の話に留まらず、人間関係も同じです。

食べ物だけが人の身体や心を構成するわけではありません。
他者と出会い、語り、関係を育み、暮らしを分かち合いながら、私たちは齢を重ねていきます。

「食の味わい=食べる人自身の体験値と生き様の反映」であるとするならば、1回限りのパーツを買い回るより、消費者・生産者・販売店のパートナーシップによる有機的な経済圏を構築することが、不安へのセーフティーネットとなり、災害が起きた時にも支え合える利他的なコミュニティの創出へとつながっていくでしょう。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑬【オープン4周年を迎えて】2024.7.30

〈其ノ参〉「おばあちゃんの味=味の素」という時代へ

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第13回。


前回の〈其ノ弐〉では、「新たなクールジャパン戦略」をもとに発酵食品の価値について触れましたが、今回は“おばあちゃんの味”をキーワードに掘り下げます。

岸田首相は7月19日、観光立国推進閣僚会議を開催。
その場で国土交通大臣は【6月のインバウンドの旅行者数は約314万人。4-6月期の消費額は約2.1兆円】とどちらも過去最高で、このペースが続けば【2024年の消費額は8兆円も視野に入る】と報告しました。

一方で、こんな記事も目にしました。
帝国データバンクによると、【創業・設立から100年以上の業歴を有する「老舗企業倒産」は、2024年上半期(1-6月)に74件発生】し、過去最多とのことです。
業種で最も多かったのは【清酒製造や生菓子製造といった日本の伝統的な産業のほか、水産加工、味噌、野菜漬物など】の製造業(22件)。
2番目は呉服、百貨店などの小売業(21件)で、2業種で全体の6割ほどを占めています。

東京商工リサーチの調べでは、2024年に創業100年を迎える会社は約2,500社。
創業100年以上の会社は45,000社余りで、日本の会社全体の約1%です。
世界比で日本は歴史のある会社・個人商店が多く、創業200年以上400年未満は1500社ほど、500年以上は220社ほど存在しているそうです(2023年時点)。


〈100年の食卓〉も「100年」というワードを掲げていますので、それが持つ意味合いについての自問自答を繰り返してきました。
その答えは、〈100年の食卓〉のコンセプトの1つである、「“おいしい”という言葉を使わない」と考えるようになった理由へとつながっています。

東京で料理人をしていた時期を含めると食に関わって20年ほどになりますが、「おいしいとは何か」と思案し、おいしいを求めれば求めるほど、そこから遠ざかっていくような経験を重ねてきました。
例えば、伝統的な製法で手造りしている生産物なら、それが本物で、「本物=おいしい」なのか。
家族経営ならば本物で、企業組織で機械製造だと本物ではないのか……。

数々の食材を舌と身体で味わい、全国の生産者を訪ねる度に、そんな禅問答に直面します。
そして、「おいしい」を見極める立場にいるようでいて、実際に生産物を分けていただき食すと、今度はそれを消費する自分自身が“本物”なのか問われることになるわけです。

そんな折、ある女性のお客さんから「あなたの作る料理は、“おばあちゃんの味”を思い出します」という感想をいただきました。
面前では咀嚼できなかったのですが、その言葉を贈られたことによって次第に「おいしい」から距離を置き、少しずつ心が晴れていったのです。
「おいしい/おいしくない」という近視眼的で刹那的な反応に一喜一憂することより、舌の記憶を旅するように“おばあちゃんの味”と向き合い紡いでいったほうが、あんがい味覚の核心に辿りつけるのではないか、と思い至ったのでした。


今年は「昭和99年」です。
あらゆる面で日本の転換点となるであろう課題を抱えた時代を迎え、“おばあちゃんの味”も例外なく上書き更新されていきます。

高度経済成長期(昭和30年~48年)に食の工業化は進み、生産・加工現場では化学農薬や食品添加物が使用され、家庭の食卓も変化しました。
欧米料理が浸透し、昭和46年にはマクドナルド1号店、昭和49年にはセブンイレブン1号店が開店。
そのような食環境の移り変わりの中で10代~20代を過ごした世代は、今、60代~70代になっています。

一昔前までは「“おばあちゃんの味”=伝統的な手造りの味」だったかもしれませんが、すでに「“おばあちゃんの味”=ファストフード&コンビニ的な味」という時代に入っています。
近い将来、うまみ調味料の「味の素」(創業1909年)も、100年続く伝統的な調味料と呼ばれ、“おばあちゃんの味”となる日がやってくることでしょう。

文化庁では「食文化あふれる国・日本」を掲げ、地域で世代を超えて受け継がれてきた100年続く食文化を「100年フード」と認定する取り組みを令和3年から始めています。
現在までに全国で250を数え、インバウンド誘致の材料としています。

ですが、100年続いてきた食品製造会社の倒産は増え、職人が手造りする伝統食品は消えていくばかりです。
消滅してしまってからその価値に気づいても、時計の針を戻すことは容易ではありません。

物価高によるスタグフレーションで所得格差は広がり、多くの家庭で日常の食卓に割高な伝統食品が登場する機会はほとんど無くなってきています。
もはや、観光客向けの食遺産としてしか、生き延びる術はないのでしょうか。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑫【オープン4周年を迎えて】2024.7.16

〈其ノ弐〉 “シン・クールジャパン戦略”と発酵食品のシンの価値

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第12回。


前回の〈其ノ壱〉では、日本人が気づけない日本の魅力について触れましたが、今回は発酵食品を例にもう少し掘り下げてみます。

岸田首相は6月4日、「新たなクールジャパン戦略」を発表しました。
冒頭で2010年代のクールジャパンからの状況変化を列挙。

要約すると…
①アニメやマンガなどのコンテンツ産業が外貨を獲得する基幹産業へ
②最大の来日動機は“食”に。地域産品で料理するオーベルジュが人気
③インバウンドのリピーターが増加。1つの地域を長期間かけて「ありのままを味わう/非日常的な体験をする」ことに価値を見出す

これらの変化を受けて「リブート(再起動)」を宣言。
【日本には、コンテンツ、多様でおいしい食、様々な地域の自然・伝統など、広義の意味での知的資産(IP)が既に数多く存在】と指摘し、【新たな技術も取り入れて「イノベーション」を起こしながら、多様化・深化した「日本ファン」に対して高い「体験価値」を提供】する、と新戦略の意図を説明しています。


官民ファンドのクールジャパン機構は、2023年3月時点で356億円の赤字を累積。
その改善を試みる再起動でしょうが、二の舞を演じる可能性もあります。

また、“食”に関しては、首を傾げたくなる表現がいくつか見受けられました。
【サービスの高度化、高付加価値化を進めるに当たっては(中略)文化や独自性に重きを置くモダンラグジュアリーの価値観が重視される】
【コロナ禍を経て、自己免疫力の重要性の認識が高まった結果、日本の発酵食文化が健康志向の高まりとともに世界から注目を集めている】

知的財産戦略本部が策定しているため「高付加価値化」「モダンラグジュアリー」「健康志向」というワードで発信したいようですが、日本の食文化を世界へ伝える上で重要な役割を果たすであろう「郷土料理」や「伝統食品」という言葉が登場しないのは不思議です。
歴史や文化に興味を抱く訪日外国人(とくに「ありのままを味わう&非日常的な体験」を求めるリピーター)への高い訴求力を持っているはずなのですが、それを結び付けた戦略を描き切れていないのは、根源的なところで日本人自身がそのポテンシャルに気づけていない、ということの表れなのかもしれません。


例えば、「発酵食品」に関する解像度の低さも気になります。

発酵食品の特長は、保存性です。
冷蔵設備のない時代に、長期間保存できることがいかに重要だったかは容易に想像がつきます。
微生物のペースで「発酵」が進み、それを補完する「熟成」を経ると、より芳醇な味・成分を湛えだします。
“美味しさ”を目論んだ人間の作為では到達できない、“時の流れ”のみが為せる世界です。

一方で、「健康志向」から熱い視線が注がれている“発酵食品”は、まるで“サプリメント”や“薬”であるかのような取り扱いを受けています。
本来の発酵食品の原材料はいたってシンプルなのですが、「高付加価値」「ラグジュアリー」などの誘惑にかられると、今まで使われていなかった原材料や工程が登場する破目となってしまいます。

そもそも美容や健康効果を期待して昔の人々は糠漬けや味噌を食べていたわけではないでしょう。
その土地の自然環境や気候風土を背景に、発酵食品は日々の暮らしの中で息づき、連綿と受け継がれてきました。
いわば、さまざまな環境下で人々が生き抜くための智恵の結晶であり生命と直結する食べ物、それが発酵食品だといえます。

目新しいモノ・コトのほうへ、つい人の心は奪われがちです。
“イノベーション”の掛け声の下、「伝統を重んじつつ新しいものを創造する」と口にした瞬間から、実は、古いものは窓際に追いやられてしまっているような気がします。

美食やグルメといった枠の中でブランディングされるポップでオシャレな発酵食品が日本の食を代表する形のみでは、いつか底が知れてしまうかもしれません。
むしろ思い切って「先人の智恵」「伝統の技術」に学び、できるだけそのままの姿形で継承していくことに力を注いでみることが、逆に今の時代において“知的財産”や“付加価値”、“イノベーション”になりえたりするのではないでしょうか。


インバウンドや輸出で日本の食をさらにアピールするのであれば、“二重価格”の制度化を政府主導で検討する必要もあります。
それとともに、「郷土料理」「伝統食品」をこれ以上消滅させてしまわないよう、日本人自らがそのポテンシャルを評価して積極的に買い支え、持続可能な生産へつなげていくことが大切です。

職人が手造りするからこそ生まれるリアルでオーセンティックな食文化の価値について、100年スパンで捉えた“シン戦略”が描かれることを願ってやみません。

 “舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑪【オープン4周年を迎えて】2024.7.2

〈其ノ壱〉日本人が気づけない“日本の魅力”とは… 

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第11回。


〈100年の食卓〉は7月20日で4周年を迎えます。
皆様の買い支えに、心より感謝申し上げます。

生産者・消費者・販売店は“イコールパートナー”と捉えていますので、今年も“感謝SALE”は催しません。
食品の適正価格=定価を保持することによって、3者間での持続可能な支え合いの関係を築いていけますと幸甚です。

つきましては、【4周年を迎えて】と題する備忘録を数回に渡って書くことで、御礼に代えさせていただければと存じます。


前回の〈序章〉では、「円安」「インフレなのにデフレマインド」「外貨を稼ぐ国力が弱い」という経済状態の日本において、値上げと賃上げのにらみ合いを続けていても、マクロ的には国内でのパイの奪い合いにしかならない、と記しました。
そして、生活必需品である食品の物価高については食料自給率(飼料・肥料・タネを含む)を上げることが急務、と触れました。

その後、定額減税が実施され、8月~10月は電気ガス代の補助が行われることになり、円安は7月1日に対ドルで161円70銭台へ入り1986年以来の安値を更新。
対ユーロでも、ユーロ導入以降の最安値を更新して173円台となり、“円売り”が広範に及んでいます。
岸田首相としては、自民党総裁選or衆議院解散総選挙を見据えながら、新札発行やパリ五輪で景気向上の機運を高めたいところでしょうが、後手にまわっている印象は拭えません。

後にノーベル賞を受賞した経済学者が1960年代、「世界には4つの国がある。先進国、途上国、アルゼンチン、日本だ」と述べました。
先進国から途上国になったアルゼンチンと、途上国から先進国になった日本という、2つの国の特例的な位置づけを指摘している言葉です。

日本は敗戦後に高度経済成長で先進国入りしてG7の一角を担い、現在もGDPはドイツに抜かれながら4位にランクインしています。
しかしながら資源の限られている日本は、一歩間違えれば、“円売り”と“輸入インフレ”に耐え切れず、先進国から途上国への途を辿る可能性もゼロではありません。


このようなネガティブな経済状況を切り開くためには、日本が世界に誇れる分野を再認識することも大切です。

一昔前は日本人といえば“勤勉・真面目・丁寧”と評され、その性質が「ものづくり」の現場で活かされていました。
自動車の製造は代表格です。
今もって日本経済の中核を担っており、財務省の貿易統計によると2023年の輸出額は17兆円。
世界市場で競争力があり、下請けと呼ばれる中小企業も含めて、その利益が従業員の給料の原資となります。

次いで「半導体等電子部品(5.4兆円)」「鉄鋼(4.5兆円)」「半導体等製造装置(3.5兆円)」となりますが、“サービス業の輸出”という扱いになるインバウンドも伸びています。
2023年のインバウンド消費は、初めて5兆円を超えました。
すでに“オーバーツーリズム”と言われ観光地では様々な問題を抱えてはいますが、「観光立国推進基本計画」(令和5年閣議決定)の目標額を早々と達成したことになります。


近年の訪日外国人は、ブランド品の爆買いといった「買い物」ではなく、「宿泊」「飲食」「レジャー体験」への消費額が多いといいます。
農水省の資料「日本の食・食文化の発信を通じたインバウンドの促進」によると、外国人観光客の78%は「日本食を食べること」を目的に挙げ、さらに「地方の郷土料理」を楽しみにしている人が半数を占めているそうです。

資源の乏しい日本において「観光資源」は国際的な注目を集め、“外貨を稼ぐ”という大事な役割を担い始めています。
これまでのインバウンド消費は台湾、韓国、中国などのアジア圏が主流ですが、米国や欧州からの観光客を増やしていくことも課題です。

欧米の日本ファンはマンガ・アニメ・ゲームの他、食や自然環境への興味が強くなっている傾向にあります。
無形文化遺産の和食やミシュランガイドの影響も考えられますが、欧米人が各種調査で日本のイメージとして挙げる「ヘルシー」「トラディショナル」「ネイチャー」「オリエンタル」「クラフト」といったワードから、古き良きものを継承している文化への関心が見てとれます。
日本的な“ものづくり”の技は、自動車などの工業的な製造分野に留まらず、伝統食品や手工芸品の世界へと置き換えれば、新たな日本の姿が浮かび上がります。

日本人が気づけていない、日本の魅力や優位性。
隅のほうに追いやられていたそれらの価値をインバウンドによって“再輸入”することで、100年後の日本を形作るための選択につなげていけるのかどうか。
私たちは今、その歴史的な分岐点に立っているのかもしれません。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑩【オープン4周年を迎えて】2024.6.18

〈序章〉 “値上げ”と“賃上げ”は「日本の食の現在地」を変えることができるだろうか

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第10回。


“円安”が続いています。
アメリカとの金利差を指摘する声が大きいですが、それだけが要因ではないという言説も目にするようになってきました。

自動車などの日本製品を海外で買ってもらえるよう、円安へ誘導してきた経緯があります。
日本経済の中核を担う製造業などは輸出で有利に働き、日本の経済成長率も上がります。
そのため政府&日銀は円安を容認する姿勢をみせていましたが、裏金問題の影響で選挙に連敗し、定額減税でも支持率が上がらない岸田首相は、1ヶ月程前から円安による物価高を“注視”していると発言。
しかし、対ドルで何円であれば適正水準なのかを考えますと、もはや4、5年前の100円~110円ではなさそうな日本の状況です。

人口減・高齢化社会による人手不足、生産性の停滞、ITデジタル業界の失速、新NISAで海外への投資(オルカン/S&P500)が増えた結果の円流出……。
複合的な要素が円安の背景にはあります。

連動する形での“物価高”も続いています。
今回は“コストプッシュ型”のインフレで、“輸入インフレ”とも呼ばれています。
輸入に頼っている「エネルギー」と「食料品(原材料使用含む)」の価格が上昇したことでコストが膨らみ、物価高となりました。

実質賃金がプラスへ転換するような賃上げを政府は呼びかけていますが、4月調査も25ヶ月連続マイナスで過去最長を更新。
都市と地方との賃金格差、電気ガス代のさらなる値上がり、税金・社会保険料の増額……低所得者のみならず、中間所得層が貧困化するスタグフレーションが進行しつつあります。

本来のインフレは“ディマンドプル型”で、需要(ディマンド)に供給が追い付かず、価格をさらに引き上げてもそれを上回る需要があって売れ、その結果、会社の利益が増えて従業員の給与も上がり社会全体の景気が良くなる、という流れです。
今回の日本のインフレはそうではなく、これまで経験したことのないインフレといえ、通常の対策(金利を上げて財政を引き締める)では効果は出ないかもしれません。


円安にも円高にも、良い面もあれば悪い面もあります。
立場によって恩恵も異なり、「給料を上げて景気を良くしていく」(インフレ)と「物を安く買いたい」(デフレ)の、いいとこ取りをできないのが悩ましいところです。

ですので、円安=悪ではないですし、物価高=悪というのも表層的な見方でしかありません。
今回の問題の核心は、「エネルギー資源」と「食料」という、私たちの日々の暮らしに欠かせない2大柱を輸入に依存している点です。
贅沢品ではなく、電気ガス代&食料品は生活必需品であるがゆえに我慢や節約に限界があり、実質賃金マイナスの家計であっても買い続けなければならないきびしさがあります。
だからこそ事態が深刻なのです。

円安・物価高だけではなく、世界各地での自然災害によって農畜産物が品薄となり、オリーブ、オレンジ、カカオ、鶏肉などは価格が高騰しています。
輸入に頼らず国産自給率を高め、食品価格への影響を受けにくい社会を構築することも食料安全保障の観点から必要です。

他方、安価な食品を大量に生産できているのは、原材料が外国産だから、という実状もあります。
とはいえ、仕入れ値が上がってもなお外国産原材料を輸入し続けたとして、その代金は外国へ流れていきます。
高値で買った原材料を用いて日本で製造された加工食品は値上げされ、最終的には日本の消費者が負担する形で物価高に耐えているのです。


賃上げは、上がらないより上がったほうが良いのですが、現在の日本の経済状況では、国内の所得を移動・分配しているだけになってしまうでしょう。
エネルギー資源が乏しく、食料自給率は低く、生産性も停滞している日本は、外貨を稼ぐ国力が弱く、その貧しい内輪の中で“値上げ”と“賃上げ”のにらみ合いをしています。
マクロでみると、それはパイの奪い合いでしかなく、日本人全体での幸福度は上がらないまま再び「失われた時間」を費やすことになってしまいます。

今回の“輸入インフレ”を機に、私たちは日本における“食”の現在地を考えるきっかけとすることができるでしょうか。
現状を根本から見つめ直し、国産の食品(タネや肥料の国産化も含め)を増やしていかなければ、日本という国の構造的な“貧しさ”を変えていくことはできないかもしれません。
資産所得倍増プランによる新NISAで“投資”が注目されていますが、“個人のお金”を増やすという投機的な姿勢ではなく、「価値のあるリターンが“社会”にもたらされる事業」を支援するという選択は、今後の日本を形作っていくために不可欠です。

紙幅が尽きました。
つづきは次回の備忘録にて。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑨ 2024.2.20

「安全安心」という言葉を使わない理由 ~農的な食品は“対話”から~

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第9回。


今回は、「おいしい」「自然食品」と並び、〈100年の食卓〉が接客や宣伝で使わないようにしているワードを糸口に、“対話する販売店”の意義を探ります。

「自然食品やオーガニック食品を購入する理由」として、日本の消費者が真っ先に挙げるのは【安全安心】だそうです。
海外では「生産者・販売店の応援」「環境問題」が多いことと比べると、特徴的な傾向といえます。
ですので、商売上は【安全安心】を使ったほうがよいのですが、少なからぬ違和感を抱いています。

【安全安心】という用語が食の現場でクローズアップされたのは、2000年代に入った頃。
輸入野菜の残留農薬やBSE問題を受けて2003年に「食品安全基本法」が施行され、科学的知見に基づいて健康リスクを評価する「食品安全委員会」が設置されました。
その後、2011年の原発事故によって【安全安心】を求める声がより高まり、2021年6月には「食を取り巻く環境の変化に対応して食品の安全を確保する」という目的で「食品衛生法」が大幅に改正されました。

しかしながら、騒動となった“マフィン”の件のみならず、食中毒のニュースは後を絶ちません。
厚労省の調査では、2021年は感染症による衛生管理の向上と外食の自粛が要因となり過去20年で最少の717件だったそうですが、2023年は1,000件を超え、今年も飲食店、恵方巻、病院食など相次いでいます。

目の前にある食べ物が出来上がるまでの各工程が自分の領域から離れるにつれ、安全性は低下していきます。
生産・加工の現場が見えず、原材料は食品表示欄でしか分からず(飲食店の場合は表示もなく)、見ず知らずの何者か、あるいは機械が作ったものを口にするわけですから、それは言わずもがなのことです。
“食のアウトソーシング”に依存する食生活の宿命──といえるかもしれません。

一昔前は【安全】といえば、食品業界より、工場や建築現場での「安全確認」、自動車での「安全運転」など、機械的・工業的なものから危険を回避して身を守るスローガンとして馴染みがありました。
それが食品でも使われるようになったのは、それだけ機械的に製造される工業的食品が主流になった証なのでしょう。
日本人はゼロリスクに近いほど【安心】を感じるといわれており、食の【安全安心】についてのハードルは上がるばかりです。

先の「食品衛生法」の改正における強化対策の一つとして、漬物の製造販売を許可制に変え、衛生基準を満たした製造施設が必要となる旨の規制が加えられました。
本年5月末日で経過措置期間が終了し全面実施となりますが、「道の駅の漬物が消滅の危機」と指摘されています。

大半は高齢農家が自宅で製造しているため、保健所の許可取得に要する改装・設備費などの負担を考えると、これを区切りに辞める方が多いそうです。
道の駅に並ぶ漬物は伝統野菜を用いていたり、工場で大量生産される漬物とは異なる手作りの味わいが魅力なのですが、消費者の【安全安心】を求める声は、場合によっては昔ながらの食文化を失うことへとつながってしまう可能性もあります。


オーガニックなどの各種認証制度や、政府機関による「食の安全」への取り組みの必要性は前提にしながらも、その裁量・権限を拡大して規制を委ね、消費者視点からのみで語られる【安全安心】の在り方には、〈100年の食卓〉としては疑問符が付きます。

大量生産の工業的食品の場合は、原材料や製造方法において不透明な部分を抱えているぶん、【安全安心】の観点からの注視は不可欠です。
また、“モノ”として捉え、見映えや価格の安さを重視し、食品の背景や料理方法について店員と会話することなくセルフレジやネットショップで購入する形態であれば、【安全安心】を強く望む姿勢も理解できます。

ですが、工業的ではない農的な食品(伝統食品や職人手造り食品)は、“人”と“人”の関わり合いや支え合いの意識がベースとなります。
生産者と消費者の間での【信頼信用】が肝心要です。
食品表示欄との睨めっこや、「安全安心なものを製造してほしい」という受け身のマインドとは、ちょっと違います。

【信頼信用】は、人への眼差しです。
人を信じ、また、人に頼る、ということでもあります。

SNSでの情報や食品表示欄のほうが対面での会話より真実味や信頼度が優位となる時代、受動型の【安全安心】信仰が肥大し、能動型の【信頼信用】の関係性は形成しづらくなっています。
物価高のご時世であっても、「生産者と販売店を応援したい」と思っていただけるような【信頼信用】をお客様との対話によって築いていけますと幸甚です。

 “舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑧ 2023.9.19

接客や宣伝で「自然食品」という言葉を使わないワケ

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第8回。


〈100年の食卓〉では、「おいしい」という言葉を宣伝や接客において出来る限り使わないように心がけています。
過去の備忘録でも記しておりますが、味覚は、出自、土地、家庭環境、経済状況、身体&精神の状態などによっても変化します。
食品販売を生業としている以上、抽象的な言葉に頼って購入を薦めるのは不誠実な接客だと考えているためです。

同様の主旨で、「自然食品・健康食品」という用語もなるべく使わないようにしています。
「自然食品にはこういう栄養成分があって、身体にこういう効果があります」と真しやかに語られたりしますが、生産者による個体差もありますし、食べる側の個人差も考慮しますと、誰もが同一の効果効用が得られるとは限りません。
食品の歴史・文化、生産方法、食味などはスルーして、栄養成分という一部分のみにフォーカスしたとしたら、それは「自然食品」といいながらも、工業的に抽出・精製した「サプリメント(栄養補助食品)」を販売していることと大差ないでしょう。

そもそも医薬品以外で、健康に役立つ保健効能成分を含んでいることをパッケージに表示できるのは、消費者庁が定める「保健機能食品」だけです。
自然食品・健康食品・栄養補助食品は、法的に定義されていません。
保健機能食品には「栄養機能食品(自己認証制)」「機能性表示食品(届出制)」「特定保健用食品(国の審査による個別許可制)」の3種類あり、これらの効能を「自然食品」に期待してしまうのはメディア情報の功罪に依るところが大きいでしょう。


ヒトは食べることで身体を形作っていきます。
栄養学を基にした日々の食生活の改善、医学的な観点からの食事療法は、西洋式・東洋式問わず大切です。
その意味で食と健康は密接不可分な関係ですが、なぜかそこに自然食品を結びつけて、病気やアレルギーが治癒できるかのように販売することは、かえって元々の自然食品が伝えようとしてきた本筋から逸れてしまうのでは──と〈100年の食卓〉は危惧しています。

高度経済成長期に大量生産されるようになった「工業的食品」へのアンチテーゼとして、自然食品という言葉は登場しました。
土地開発や公害などによって破壊されはじめた自然環境を守ることにつながるような食品を求める消費者の想いが背景にあったと思われます。

とはいえ、「工業」の対義語は「農業」で、「人工」は「天然」です。
よく考えると「自然食品」という造語は曖昧模糊としていますし、字面から「自然まかせで、まったく人の手が介在していない食品」という誤解も生みます。

天然の魚、野生のジビエ、自生の山菜などは正に自然食品と呼ぶに相応しく感じますが、故に“自然の怖さ”とも隣り合わせで、食中毒やアレルギーに気をつけて食さなければなりません。
それらと異なり、人間が意識的に関わって生産・製造した食品に“自然”という言葉を付加したことで、結果的に現在、自然の仮面を被った不自然な“自然派食品”との境界が判別しづらくなっています。

例えば加工食品で、昔ながらの造り方をする食品をA、添加物を使用して工業的に大量生産される食品をBとします。
そこで、Bから添加物を無くしさえすればAになるかというと、実際はCという無添加食品を新たに創作したにすぎないケースがほとんどです。
CとAには雲泥の差がありますが、自然食品カテゴリーで同等に扱われていたりします。
今まではAとBの二項対立のように捉えられてきましたが、実は近年のこの問題の核心はCがAの領域を脅かし始めていることで、そこに自然食品市場の現代的な課題が潜んでいると思うのです。


インフルエンサー(アンバサダー・アフィリエイト)による自然派系の投稿を読むと、自然、健康、無添加、オーガニック、SDGs、エシカルを誘い水にして母親層へと訴求する仕掛けが見受けられます。
医薬品や保健機能食品にしか認められていない効能を謳っていれば薬機法に抵触しますし、マルチ商法への入口となる危うさも抱えています。

消費者庁は10月からステルスマーケティングを景品表示法で規制します。
現代のネット社会は、フェイクや陰謀論に留まらず、多様な情報に触れているようにみえて、気づかぬうちにフィルターバブルやエコーチェンバー現象に陥ってしまう時代です。
SNS上の甘言には懐疑的であるぐらいが適度な距離感といえるでしょう。

“自然”というキーワードは、健康や美容への効果がありそうなムードを醸成しています。
ですが、栄養素や添加物はあくまで、食べ物の一部分です。
パーツに目を奪われてしまうと、全体を見誤り、逆に不自然や不健康になってしまうかもしれません。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑦ 2023.2.21

物価高の状況下であっても、「この店でなら買う価値がある」と支持して頂ける店であるために

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第7回。


物価高と電気ガス代の値上がりは、“コロナ貯蓄”を切り崩し、じわじわと家計に影響を及ぼしています。
景気が良くなる好循環のインフレになれば問題ありませんが、消費者物価指数を超える賃上げは一部に限られそうで、実質賃金減となる多くの国民にとって2023年は節約志向がより強まる可能性もあります。

中でも食品は、4月に値上げのピークを迎え、高止まりが続きそうです。
スーパーで買い物をしていると、価格転嫁に起因する買い控えや顧客離れに悩み、値上げと値下げの板挟み状態なのがひしひし伝わってきます。
あるスーパーでは、これまで堅調だったナショナルブランド商品から、安いプライベートブランドへの移行が起き、売り上げを伸ばしているそうです。
以前は否定的に受け止められていた容量減のステルス値上げ品を選ぶ消費者も増え、原材料を変えて価格を維持する形のステルス値上げも出現。
価格競争の我慢比べは大企業に分があり、中小規模のスーパーにとってはきびしい環境が続くことになります。

申し上げるまでもなく、弊店のような個人商店は尚更です。
「インフレなのにデフレマインド」という現状では、賃金が少し上がったとしても大量生産の低価格食品への需要は収まらず、残念ながら、“価格”より“価値”に共感する購買意欲は弱まり続けるでしょう。


〈100年の食卓〉としましては、このような時代にどういったメッセージを発信することが有意義なのか、日ごと思考を巡らせています。
微力ながらも〈100年の食卓〉は、「ソーシャルビジネス」というスタンスで事業を行なっています。
ですので、原則として値下げ販売もいたしませんし、商品を仕入れて右から左へと販売すれば仕事は終了とも考えていません。

「売れるものを売る」ことは、利益を最優先で追求するセクターにおいては当然の行動原理です。
しかし、利益とともに“社会貢献”を掲げるセクターでは、「社会にとって価値あるものを消費者へ届ける」という使命がプラスされています。
価格競争をして顧客を獲得し利益を増やそうと営利組織は知恵を絞りますが、ソーシャルビジネスは消費者との共同作業によって「社会的課題を解決すること」が最終的なゴールになります。

“買い物で社会貢献”を具現化するには、ラベルやPOPでは表現しきれない生産者・食文化のストーリー、食卓での楽しみ方などを“対話”することが欠かせません。
無言での販売(購入)では、人と人、人と社会のつながりを醸成することはできないと思うのです。


ある調査によりますと、欧米でオーガニック食品を購入する消費者の多くは、動機として「自然環境の保護」と「生産者・販売店への支援」を挙げるそうです。
今ある自然環境を次世代へつなげる役割を意識し、その関係者をサポートすることで“未来の社会への投資”になるという価値判断が買い物においても働いています。

一方、日本の場合は、農水省の令和元年度「有機食品等の消費状況に関する意向調査」で、「オーガニック食品を初めて飲食したきっかけ」の質問において、「自分や家族が病気にならないため」が最多の回答となっています。
他の各種調査も同様で、自分自身や子ども・家族の身体への影響を心配して「安心安全のため」という理由が大きな割合を占め、「栄養価」「おいしさ」が続きます。
これらは“自分への投資”と言えるかもしれません。

同じ投資でも、“未来の社会へ”と“自分自身へ”とでは、消費行動の選択基準が異なってきます。
歴史・文化の違いもあり、宗教観やそれに伴うチャリティー(寄付)の在り方にも差がありますので一概に比較できませんが、欧米では“食”という分野を通して社会とのつながりを構造的に捉える傾向が見てとれます。

日本では、有機認証のない食品であっても全体的に質の高い生産物が多く、衛生管理面や食品表示制度に一定程度の“安心安全”を抱いている側面もあります。
それゆえ、オーガニックを“安全安心”や“健康”でブランディングし続けても、それに呼応する層はすでに飽和状態で、それ以外の層へとなかなか広がっていかない背景にもなっています。

それらを踏まえますと、これまで日本では着目されてこなかった“未来の社会への投資”という視点は、これからの人口減少社会において効果的な指針になると〈100年の食卓〉は感じています。
「社会的課題の解決度の高い食品」の購入は、100年後の食卓をつくることへとつながっていくのです。

物価高の状況下であっても、「この店でなら買う価値がある」と支持して頂ける店であるために、〈100年の食卓〉はお客様との対話を続けてまいります。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑥ 2022.12.13

インフレと食料安全保障 ~2022年末のご挨拶に代えて~

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第6回。


今年2月の投稿で、2022年は「円安」と「コストプッシュ」を要因とする値上げが政治的にも経済的にも課題となり、スタグフレーションからスクリューフレーションへ陥る可能性について触れました。

景気が停滞しているデフレ状態なのにインフレになる現象を、スタグフレーションといいます。
スクリューフレーションは、中間所得層の貧困化を意味するスクリューイングと、物価上昇を示すインフレーションを組み合わせた造語です。
中間所得層の生活が光熱費や食料品の値上がりによって苦しくなり、経済がさらに停滞し、低~中間所得層の貧困化に拍車がかかる、という現象です。

投稿から約10ヶ月。
多くの人が、「給料が上がって景気が良くなった」という好循環で物価が上がったインフレだとは感じていません。
コストプッシュ型のため給料は置き去りにされたままです。

11月発表の消費者物価指数は、前年同月比で3.6%の上昇。
1982年以来の上げ率です。
食料品(生鮮は除外)は5.9%、電気・ガスは約20%の上昇。
輸入に頼っている分野で値上がりし、そのペースに給料が追い付かず、多くの労働者は“実質賃金減”となっています。
労働組合の連合は来年の春闘で5%の賃上げを求めることを決めましたが、これで、スクリューフレーションに陥らず、“良いインフレ”とすることができるのか、まだ未知数です。

11月30日には畜産農家が農水省へ向けてデモを行ないました。
飼料の高騰に対する支援を求めてのことです。
畜産用の飼料も、野菜用の化学農薬・肥料も、大半は外国産です。
輸入飼料の値段が上がれば、生産者は肉の価格を上げざるを得ないのですが、卸先であるスーパーなどは小売価格を値上げすると消費者が離れてしまう危機感からか、なかなか首を縦に振ってくれないようです。
倒産する畜産会社も増えています。

食料安全保障の観点から政府は自給率の向上に取り組んでいますが、令和3年度のカロリーベースの「食料自給率」は38%。
15年ほど40%を下回り、先進国では最低水準です。

この算出では、輸入飼料による畜産物の生産分は含まれていません。
「飼料自給率」は25%のため、肉類の75%は輸入飼料による生産です。
令和2年に閣議決定された「⾷料・農業・農村基本計画」の中で新設された「食料国産率」は、輸入飼料を用いた畜産物も含める指標で、数値は47%。
食料自給率より11%上がっています。

畜産物の「国産率」と「自給率」を比較しますと、牛肉は、国産率45%で、自給率12%です。
豚肉は49%と6%、鶏肉は65%と8%、鶏卵は96%と13%、牛乳乳製品は63%と27%。
どれも国産率と自給率に大きな差があることがわかります。

「国産」と表示されている肉・野菜を購入しても、その背景を知ると、半分は外国産と思えてくるほど、輸入の飼料や化学農薬&肥料に頼らないと生産自体できない状態にあるといえます。
「国産」ではなく「自給」という食品表示が今後登場する可能性も、無きにしも非ずです。

輸入の飼料や化学農薬&肥料を用いて安く大量に生産することを良しとする時代がそろそろ終盤に差し掛かっていることを、今回のインフレは間接的に伝えているのかもしれません。
高度経済成長期の過程で、例えばブロイラーのような飼育方法や大規模な単一作物栽培が浸透することで、均質かつ画一的な生産物が全国津々浦々まで流通し、大量生産ゆえに安く販売することが是とされ、結果として地鶏や伝統野菜などの多様性のある“土地固有の生産物”は姿を消して行きました。
と同時に、人間の食生活が、“食事”というより、徐々に“エサ化”し、ヒトは自ら“家畜化”の道を歩んでしまっているようにも映ります。
今や政府が、人間の食料用ではなく、畜産物の飼料用に転作することを促進している時代なのです。

ブランディング/マーケティングによるおいしさ、そして、工業的な農産物や加工食品が溢れ、その一方でフードロス削減が叫ばれるほど飽食の社会である私たちの国は、しかしながら、エネルギーも食料も自給できない国だったりします。
今年のインフレを機に、食の豊さの価値を再設定しなおすことも、食料安全保障に必要なアプローチなのかもしれません。

伝統的な食品は、日本の地で、世代をつないで作られてきたものです。
単に「国産」という枠に留まらず、この国の自然&資源を活かし、持続的に生産できる環境が整いやすい「自給できる食品」でもあります。
“価格”ではなく“価値”を見つめ、その上で、価値ある食品を継続的に買い支えていくことが、ひいては安定した適正価格と食生活を実現するプロセスへとつながっていくのではないでしょうか。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録⑤ 2022.8.30

3年目の抱負に代えて ~拘らず、縛られず、囚われず~

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第5回。


先般7月20日、弊店は開店2周年を迎えました。
ご愛顧に厚く御礼申し上げます。
そこで今回は、SNSなどで最近つながった方への自己紹介も兼ねて、3年目の抱負を書き留めます。

〈100年の食卓〉は、「トラディショナル&クラフト食品専門店」というコンセプトを掲げて開業しました。
しかし現代において、“伝統食品&職人手造り食品”は姿を消しつつあります。
そこで〈100年の食卓〉は事業ミッションとして、「消えていく食材・忘れられていく食文化」にスポットライトをあて、これまでの100年とこれからの100年の食を見つめ、次の世代の食卓へ価値をつなげでいくための“場”となることをステートメントに記しました。

それから2年。
弊店の力不足もあり、世の中の状況はゆっくりと危惧している方向へ進んでいます。
それは、私どものような個人商店も含めてです。
大型スーパーのみならず、いまやネット通販とも切磋琢磨しなければいけない時代。
両者の狭間で埋没し、もはや社会にとって必要不可欠なピースではないため、町から消えていかざるをえないのでしょう。
ですが逆に、そんな時代だからこそ、個人商店の食品小売店が果たすべき役割はどこにあるのか、を考え続けてきた2年でもありました。


〈100年の食卓〉は、食への関心が高い方をメインターゲットにする店づくりというより、地域に住む多様な老若男女の方々が「現代ではあまり見かけなくなった伝統的な食品に出会うことができる場」となることを目標に据えています。
繁華街ではなく、住宅街に店を構えたのも、そのような想いからです。
お客様の“日常の食生活”を前提に、近隣のスーパーとも共存しあう、いわばハイブリッドな食卓の提案です。

食への関心が高い消費者は、直接生産者から購入したり、「無添加食品」や「無農薬野菜」などのように購入動機&条件が初めから絞り込まれています。
そのため需要は固定化していて、ヒトもモノも流動性がない市場。
とくに食の嗜好は、好奇心でチャレンジしても、最終的には“いつもの味”を選択するという保守的な傾向が表れやすい分野です。
限られたパイを奪い合う競合型では、層の広がりは見込めません。
〈100年の食卓〉は、裾野を徐々に広げていくボトムアップスタイルに未来を見出しています。

たとえば、弊店では農家さんが自家採種した無農薬栽培の固定種・伝統野菜を取り扱っておりますが、私ども店主夫婦の食卓には、スーパーに並んでいる農薬などを使用して栽培されたF1種の野菜も日常的に登場します。
○か×か、白か黒かという価値判断は、いっけん純粋で論理的な選択に映りますが、グレーな部分を抱えて悩んだり迷ったりしながら“考え続けていく”という伸びしろがありません。
狭い世界での拘りは時に先鋭化し、いわゆる“食のカルト(マルチ・囲い込み商法)”に陥る危険性もあったりします。
「腸活に最適です」「病気が治ります」などのフレーズを多用した販売手法も、それらと紙一重でしょう。
“拘る”ということは、それに縛られ囚われることにもなりがちです。
〈100年の食卓〉は、食べ物の栄養成分や効能効果を売り文句にするのではなく、食品の製造方法や歴史、食文化を語るように努めています。
それは、一過性のブームに頼らず、ゆっくりであっても着実に裾野を広げていくために最も大切な作業だと自戒しているからでもあります。


個人商店の営みは、お客様との共同作業によって築き上げられていきます。
数ある食品店の中から〈100年の食卓〉を選びご来店いただいたときの、0が1になる瞬間は、何事にも代えがたい喜びです。
そして、月1回のご来店が2回に増えたり、隣に並んでいる食品にも興味を持っていただいてお買い物が1個から2個になったり。
「私が1票入れても入れなくても、変わらないでしょ」と政治の選挙では感じたりしますが、買い物という経済の投票は、個人商店のような小売店であるほど、消費者が想像する以上の影響を及ぼしていたりするのです。
「1」を積み重ねていく“プラス1の出会い”を生み出す役割こそが、対面コミュニケーション販売である個人商店の存在意義だと、2年の歳月の中でお客様から教わりました。

100年の単位でみれば、2年はわずかな時間です。
裾野を広げていくためには最低でも5年、いえ、10年後ぐらいになってようやくその成果が少し見えるようになるかもしれない、というスパンでの取り組みです。
微増傾向とはいえ、まだまだよちよち歩きの経営状態。
5年、10年と続けられるかどうか、真価が問われる3年目が始まりました。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録④ 2022.7.19

食品表示はおいしさの道標? 〈後編/食品添加物の不使用表示〉

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第4回。


加工食品のパッケージなどに記載される食品表示は、食品表示法によって規定されています。
その中で「食品添加物の不使用」を表示する際の基準が定められていないことを受け、消費者庁は2022年3月30日に「食品添加物の不使用表示に関するガイドライン」を発表しました。

なぜ今、「添加物」にまつわる表示が問題になったのでしょうか。
消費者庁の資料をもとに、その理由をざっくりと要約してみます。

「無添加/不使用」などの表示は、「義務表示」ではなく、事業者による「任意表示」。ただし、消費者に誤認を与える表示は「食品表示基準第9条」で禁止している。しかし、その例を示す具体的な記述はない。現在、「無添加」「不使用」など表示の種類は多岐にわたり、第9条に該当するか否かをすべて列挙することは困難。そのため、注意すべき表示を10の類型に分けた──と説明しています。

では、「10の類型」はどんな内容なのでしょうか。
文字数の都合もあり、主となる項目(★)を抜粋し、店主の意訳(⇒)を記してみます。

★単なる「無添加」の表示
⇒何を添加していないのか、添加物の名称が不明確なのはNG

★食品表示基準に規定されていない用語を使用した表示
⇒「化学調味料」「人工甘味料」など、化学・人工・合成・天然といった未規定の用語を使用するのはNG

★同一機能・類似機能を持つ食品添加物(原材料)を使用した食品への表示
⇒保存料を使用していなくても、日持ち向上目的の添加物(原材料)を使用している場合に「保存料不使用」と表示するのはNG

★健康、安全と関連付ける表示
⇒「無添加」=「健康・安全」であることが科学的には実証できないので、関連付けた表示はNG

★加工助剤、キャリーオーバーとして使用されている食品への表示
⇒原材料の一部に加工助剤などを使用しながら、最終製品に「不使用」と表示するのはNG

★過度に強調された表示
⇒大きく「無添加」と表示して隣に小さく「保存料」と表示し、それ以外の添加物は使用している場合はNG

大まかに、以上のような内容です。
食品関係者の間では賛否両論あるようですが、つまるところ、任意表示の「無添加/不使用」の記載は、大なり小なり購入を促すためのキャッチコピーといえます。
添加物の有無は、基本的に、原材料欄で確認できます。
別枠で強調するのは、添加物表示を省略できる“加工助剤”などがあるため、という側面もあるでしょう。
ですが、必要以上に「無添加」などの任意表示が氾濫した結果、かえって玉石混交になってしまいました。

ガイドラインは令和6年3月末まで経過措置期間がとられ、それまでの見直しを事業者に求めています。
とはいえ数年後、“元の木阿弥”にならないとは限りません。

「無農薬」や「有機(オーガニック)」という表示も、制度で規定することによって、一見、消費者にとって良いことづくめのように映りますが、大規模生産者と小規模生産者では事情が異なるため、様々な弊害も指摘されています。
そのような課題も踏まえますと、「無添加」の表示をことさら厳密に規定するより、原材料欄の中で「使用した添加物はすべて記載する(加工原材料に含まれている場合や、加工助剤などもすべて)」というルールにするほうが、シンプルでポジティブな食品表示になる気がします。
現状では、添加物も農薬も、使用していない事業者が使用していないことを裏付けるために任意表示で記載していますが、目線を逆にして、使用している事業者が使用しているものをすべて表示すれば、より消費者ニーズに沿うのでは──と、毎日のように食品表示を眺めながら〈100年の食卓〉は感じていたりするのです。

“化学的に造られた添加物”がない時代、加工食品はどのように造られていたのか。
そのために職人はどのような手仕事を積み重ねていたのか。
連綿と続く全体像をスルーして、「無添加」という要素のみに着目し工業的に生産する“無添加食品”や“自然食品”に、〈100年の食卓〉はあまり価値を見出すことができません。

伝統的な製法と職人の手仕事によって造られる、結果として無添加である食品。
無添加を目的にすえ、近代的な製法で機械によって大量生産される食品。

2つの違いは、食べてみれば明らかです。
“無添加食品”“自然食品”という表示は、何かを伝えているようでいて、その実、あいまいで、口にする食品の歴史や文化について語ってくれているわけでもなかったりします。

食品表示はあくまで一つの情報です。
そこに“答え”を求め過ぎてしまうと、“消えていく・忘れられていく食品”のような小さな声は聞き逃してしまうかもしれません。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

備忘録③ 2022.6.14

食品表示はおいしさの道標? 〈前編/原料原産地表示〉

エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。
食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”があまた存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とは──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第3回。


第2回では、食品単体での「おいしい」を翻訳し、食卓が「たのしい」へとつながるデザインをお客様に提案することが、私たち〈100年の食卓〉の役割であると記録しました。
今回はその続きをと考えていたのですが、時期を逸する前に、今年4月から変更になった「食品表示」と「おいしい」の関係について書き留めます。

食品のパッケージやラベルに記載される、食品表示。
商品名はもちろんのこと、キャッチコピーや商品アピール文、原材料に賞味期限など、いろいろ書いてあります。
これらは「食品表示法」によって、記載が義務付けられていたり、表記基準が示されたりしています。

食品表示法は2015年4月、それまで「食品衛生法」「JAS法」「健康増進法」の3つがそれぞれ独自に定めていた食品表示に関する法律を一元化する目的で施行されました。
先般その一部が改定され、2022年4月から新しいルールがスタート。
一つは「原料原産地表示」、もう一つは「食品添加物の不使用表示」についてです。

今回は「原料原産地表示」に触れます。
2017年9⽉に施⾏され、経過措置期間を2022年3月31日まで設けていたため、例外なく義務付けられるようになったのは4月1日からです。

農林水産省の資料から抜粋しますと、「グローバル化に伴い、⾷品においても商品の多種多様化やフードチェーンの複雑化・国際化により、さまざまな国の原材料を⽤いた加⼯⾷品が流通しています」とし、「購⼊する際に、原料原産地名を参考にしている消費者は約77%を占め、消費者の関⼼も⾼い」と指摘。
これまで加工食品の一部(約11%)を対象にしていた状況を改善し、すべての加工食品を表示義務の対象とした、と述べています。
この改定によって、輸入食品を除くすべての加工食品は、使⽤した原材料に占める「重量割合が最も⾼い原材料」の「原産地」を国別で表示することになりました。
原材料が加⼯原材料である場合は「製造地」を表⽰、としています。

ここで、一つ素朴な疑問が浮かびます。
「重量割合が最も高い原材料」は義務付けられましたが、2番目以降は対象となっていないのです。
“自主的”に表示を行なうことができる、としていますが、実際にスーパーで確認してみると、2位以下を記載している食品は見つかりません……。

なぜでしょう?
原産地を証明する術がなかったり、すべてについて表示するとスペースの問題が生じたりするからかもしれません。
ですが、1位のみですと、「1位の原材料は〇〇産」という意味であったとしても、2位以下も「1位と同じ〇〇産かな」と受け止めてしまう可能性があります。
未表示の原産地は想像するしかなく、結果、「たぶん1位と同じ産地だから記載していないんだろう」と誤って理解するケースもあるかもしれません。
また、1位が加工原料の場合、元原料は外国産であっても国内で加工した状態のものを使用していたら「国内製造」という表示になることも、原料原産地表示の意義を薄めてしまった気がします。

食品表示は、あいまいな表現が不信感を招きます。
もう少し、シンプルに、よりポジティブな視点で捉え直すことができたらいいのになあ、と思ってしまいます。
原料原産地表示なら、例えば、国産の原料は表示せず、国産以外については産地名を表示するというルールにすれば、国産かどうか一目瞭然です。

現在、エネルギーコストのプッシュと円安を受け、輸入原料の割合が高い加工食品を主とする食料品の値上げはまだ底が見えません。
この機会に、食料安全保障や食料自給率の観点からも、「国産」の食品が表示情報を基に明確に判別できるようになることは有意義と言えるでしょう。

その反面、「熊本産」のあさりが実は「中国産」だったと報道されると売れ残ってしまう現象を目の当たりにしますと、「おいしい」という食味より、「食品表示」のほうが優位に立つことへの不安も募ってきます。
表示情報への過度な依存は、舌と身体の感覚を鈍らすことにもつながりかねません。

加工食品の表示に消費者の関心が集まるのは、現代社会においてそれだけ“他者によって加工されたもの”を食す機会が増えていることの裏返しでもあります。
外国産小麦粉を主原料としたパン&麺類は食卓の主役として定着し、総菜・弁当、冷凍食品、そして外食産業(テイクアウト含)も外国産原料の割合は高いと言われています。
共働き・高齢者・単身世帯の増加によって“食のアウトソーシング”は一段と進み、安価で便利な加工食品はいつでも手に入り、台所で素の食材から調理する手間はコスパ&タイパの波に飲み込まれつつあるようです。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。

 

備忘録② 2022.5.24 

「おいしい」を翻訳し、「たのしい」をデザインする 

 エビデンス&ファクトがあまり定かでない効用を声高に謳う、健康・美容系食品。

食べ物自体が持つ本質的な食味より、“キャッチコピー”や“食品表示”を売りにしてしまっている無添加・自然派系食品。
そんな“消費を煽る食品”が数多く存在する時代、〈100年の食卓〉が考える【100年後につなげたい食品】とはどういったものなのか──。
「“舌先”で感じるおいしさの、その先」を模索するシリーズの第2回。


第1回では「おいしい」を美と美味の関係を切り口に、あるパンクロックバンドの有名な曲の歌詞を借りて、食の世界の「写真には写らない美しさ」について考えました(過去投稿にあります)。
今回は、「おいしい」の基本となる味覚の構造を切り口に、書き留めてみたいと思います。

「おいしい」のメカニズムは科学的・文化的側面など、様々な分野からのアプローチによって解明されてきています。
京都大学名誉教授で農学博士の伏木亨氏の著書『おいしさを科学する』などを参考にしながら、まずは「おいしい」を5つに分類してみます。

①「身体」が求めるおいしい
身体が必要としているものを食べたときにおいしいと感じる、というもの。
空腹時の食事は何を食べてもおいしいですし、疲労時には甘味を求めます。
その日の体調や精神状況によって感じ方は違ってくることに。
味わいというよりも、人間の「食欲」に忠実なおいしい、です。

②「食文化・食生活」によるおいしい
生育歴や地域性が影響するおいしい、です。
みそ汁のみそは何を使うのか。
目玉焼きには、ソース? 醤油? 塩? ケチャップ? はたまたマヨネーズ?
世界的にみても国・民族によって異なりますし、同じ地域でも各家庭の経済状況によって変わります。
Aさんにとって「おいしい!」と感じるものが、Bさんにとっては「おいしくない……」ということが起きやすいのも特徴。
「なじんできた食べ物」の味と合致するとおいしいと感じる、ということです。

③「情報」によるおいしい
メディアやSNSで取り上げられている食品を食べたときにおいしいと感じる、というもの。
これは「人間特有の現象」だそうです。
「行列ができる店の食べ物」「雑誌で紹介されていた酒」と思えばおいしくなるので、実際に味わって感じるおいしさというより、先入観としての情報がおいしさをリード。
食べる前からすでに「おいしい!」となっているのです。

④「やみつき」になるおいしい
「やみつき」とは、繰り返し求めてしまう、いわば“中毒状態”です。
薬理学的な実験から、「油脂・砂糖・だし」が筆頭に挙げられています。
「砂糖×油脂=ケーキ」「油脂×だし=ラーメン」がその典型例。
リピーターを獲得するために「やみつきになるおいしい」を創り出すことが、食品メーカーや外食産業の重要なテーマとなっています。

⑤「一緒に食べる」ことによるおいしい
文化人類学からみて、「人が集まって食べると何でもおいしいと感じる」というもの。
一人より、気の合う仲間で食べたほうが、同じものを食べたとしてもおいしいと感じやすくなります。
「個食(弧食)」も増えている時代ですが、やはり人と一緒に食べるとおいしくなるから不思議です。

以上、ざっと5つの角度から、「おいしい」の風景を眺めてみました。
「おいしい」のメカニズムは、“舌先”だけで捉える表層的な味わいにとどまらず、場面や状況で万華鏡のように変化していることがわかります。

と、そこで、改めて「おいしい」の正体を疑ってみます。
以前、ある和食店の板長は私に「自然塩より、精製塩のほうがおいしい料理が作れる」と言いました。
主張しない調味料のほうが、職人としての技術を活かしたおいしい料理が作れる、という考え方です。
食材がおいしいと、かえっておいしい料理にならない、という料理人の声も聞いたことがあります。
工場生産の総菜や冷凍食品は、うま味調味料などの添加物が、“脇役”というより、食材以上においしいの“主役”を務めていたりもします。

「おいしい」の捉え方は、人それぞれの価値観が反映し、多様です。
同じ言葉で語っていても、角度によって「おいしい」は違う景色を映し出しています。
そして、“舌先”は、このような“おいしいのマジック”にだまされやすい、とも言えます。

ですから、「おいしい」は、むずかしいです。
「これ、おいしいですか?」とお客様に尋ねられると、一瞬、言葉に詰まります。
その方の生い立ちや、どんなシーン&シチュエーションで食べられるのか、を伺いたくなってしまうのです(笑)。

製品説明をするスタッフがいない売場で食品を選びセルフレジで購入するまで一言の会話もないスーパーが増え、ネットでポチッと押すだけで自宅まで食品が運ばれてくる現代、対面コミュニケーションによる接客をコンセプトとする私たち〈100年の食卓〉の役割は、食品単体での「おいしい」を翻訳し、食卓が「たのしい」へとつながるデザインをお客様にご提案させていただくことにあると考えております。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
〈100年の食卓〉の思考は、続きます。 

備忘録① 2021.6.19

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──

弊店《100年の食卓》は、~これまでの100年とこれからの100年の食を見つめ、次の世代の食卓へ価値をつなげていく食のセレクトショップ~というコンセプトのもと、夫婦二人で営んでいる小さな食品店です。
〈トラディショナル&クラフト食品専門店〉を掲げ、エビデンスやファクトがあまり定かでない宣伝文句が混在する健康・美容系食品というカテゴリーとは一線を画して、食にまつわる仕事に携わってきた私ども夫婦が“おいしい”と感じるものを開店来、お客様にご案内しております。
本質的な味よりも“レッテル”や“キャッチコピー”を追い求めてしまっている食品があまた存在する時代、《100年の食卓》がお客様へお届けしていきたい【100年後につなげたい食品】とはどういったものなのか──。
開店1周年を目前に控え、備忘録がわりに書き始めてみたいと思います。

★備忘録① “舌先”で感じるおいしさの、その先へ

ある精進料理人は雑誌のインタビューで、「美は美味。美しいものは美味しい」と答えていました。
また、ある料亭の主人は「美しく盛り付けることを考えるのではなく、美しいものを盛るのです」と語っていました。
そして、あるパンクロックバンドは「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真にはうつらない美しさがあるから」と歌いました。

〈おいしい〉には「美味しい」、〈うまい〉には「旨い/甘い」という漢字が当てられています。
時代の移り変わりのなかで、〈おいしい〉〈うまい〉と感じる料理や食材が姿形を変えていくように、〈おいしい〉〈うまい〉という言葉も、その意味する内容は多岐に渡ってきているようです。

もともと〈おいしい〉は、「好ましい・見事・優れている」という意味を持つ「いし(美)」が語源となっているそうです。
最後の「い」は形容詞化した接尾語で「いしい」となり、「お」は丁寧な言葉につく接頭語であることから、〈おいしい〉は上品な丁寧語として女性の間で用いられはじめたとのこと。
かたや〈うまい〉は、「熟む(うむ)」の形容詞化で、果実の熟した味わいに由来し、「熟して甘いもの=うまい」になった、といわれています。
古くから大衆的な言葉として使われた〈うまい〉は、食べ物の味が良いことを意味する「旨い・甘い」以外に、優れている物や人などのことを「上手い」「巧い」と比喩する言葉へと派生していったようです。
最近は、〈おいしい〉〈うまい〉では物足らず、「おいしすぎ!」「うますぎ!」へとボリュームアップ。進化系として「やばい!!」が席巻しています。

もし仮に、インパクトの強い味や濃い味のものを「うますぎ!」「やばい!!」と評価していく時代に突入しているとしたら、平板な味や地味な食べ物に対して「まずい」と反応する現象も増えていくことが予想されます。
例えば近年、濃厚な味の豆腐が〈おいしい〉と評判になったりしますが、それが豆腐のあり方として常道なのかどうかは一考の余地があります。
原料となる大豆の味がしっかりと伝わる造り方は大切ですが、“濃くて甘い豆腐”はデザートのようで、一口だけならいいのですが、ある程度の量を食べ続けるのは難しかったりします。

そんな「うますぎる」豆腐と似たような事象は、野菜でも見られます。
“甘い野菜”“アクのない野菜”など、「うますぎる」野菜が人気です。
品種改良することで子どもが野菜を食べられるようになることへの期待が寄せられる一方、数年前のあるテレビ番組の調査によると、子どもたちに五味のテストをしたら約7割が味覚障害だったといいます。
化学調味料などの添加物を使った食品の仕業という話にとどまらず、度がすぎるおいしさの追求は、家庭の食卓の姿も変えつつあるのかもしれません。

安価な工業的食品の問題点はメディアでもよく指摘されていますが、高価な食品の世界でも、実は、このような現象に影響を与えはじめていることも、事態を複雑にしているような気がします。
付加価値を求めて「おいしく・うまく」なるよう積極的に創り込んだ高価な食品は、“手間暇かけて”という側面より、事によっては“やりすぎ”を招いたり、愛情や情熱ゆえの“過保護・過干渉”の味わいとなる場合もあります。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言いますが、“プレミアム”や“極上”といった一見すばらしいことに思える創り込みの重ね技が、普通の、シンプルでベーシックな食文化を、もしかしたら知らぬ間に忘却させてしまうかもしれません。
豆腐や野菜に限らず、醤油や酒の造り方、肉の育て方、料理の仕方が、〈おいしい〉〈うまい〉を目指せば目指すほど、それらが持つ生来の「おいしさ・うまさ」を通り過ぎている感じがします。

伝統食品や職人の手造り食品に日々接しておりますと、足し算や掛け算による製法で商売的な“こだわりのうまさ”を押し出すことより、製造の過程で「何をしないか」という引き算の視点から伝わる作り手としての矜持のようなもののほうが、派手さはなく素朴でありながらも大きな魅力を発していることに気づきます。
また、おいしさを測るとき、どうしても高級ラインの製品に目を奪われてしまいがちですが、いわゆる「ボトム」にあたる価格帯へのニュートラルな取り組みにこそ、食品会社または職人としての真摯な姿勢が滲み出たりするものです。

“濃い味”や“インパクトの強い味”のような一口目で瞬発的に「おいしすぎ!」「やばい!」と口をつく有り様と違って、“淡い味”や“滋味”に満ちた食品のおいしさは、簡単にその姿を現してくれません。
分かりやすく劇的な味を湛えているというより、味わいはきれいに澄んでいて、程よい旨味にバランスよく包まれ、意外にこれといった特長はなく、飛び抜けた個性的な一面も見えにくかったりします。
それは、いわば、“写真にはうつらない美しさ”のようなものなのです。

“舌先”で感じるおいしさの、その先へ──
《100年の食卓》の思考は、続きます。